古道を訪ねて
古の道路づくり律令時代の幹線道路
道路の歴史を紐解くに、「いつの時代から道路を人為的に、規格化造成していったのか、また、その構造はどのような工法や道具を使用して作り上げたのだろう」という想いが、道路関連の末端に携わっている者としては、沸き上がって参ります。
しかし、考えてみるに、都大路といった都市部の生活道路を除いて、国内の主要都市を結ぶ幹線道路は、その必要性から、多分、中央集権国家が成立した以降であろうと容易に推測されます。
なぜなら、国家として支配者が各地の支配地に、その支配力を継続して及ぼすためには、支配力(支配伝達役人、軍隊)を正確に、また迅速に行える手段として、そして各支配地の貢物、産物を送らせる運送路としての役割を果たせる手段として、道路は必要不可欠であります。
それゆえ、大和朝廷成立時までは本格的な道路構築は、少なかったのではないかと推測されます。
しかし、大化の改新(645年)以降、本格的な街道整備が行われ始め、特に大宝律令(701年)の発令の中で幹線7道の整備が進み、大和を中心とした5畿7道の国家体制が出来上がりました。
東山道武蔵路(埼玉県比企郡吉見町)
その7道の1つが、東山道(図-1)で、畿内から長野、群馬、東北へと通じる主要幹線です。そして、今回ご紹介するのが、その途中、上野(現群馬県)の新田から武蔵国府(現東京都府中市)へ通ずる支線が、後に廃道になり、最近になって発掘された幻の東山道武蔵路です。
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図-1 東山道及び東山道武蔵路
この発掘調査により、律令時代の道路に考古学的な検証が加えられ、まさに今、現代によみがえり、約1300年前の道路構造も推考できるのであります。
しかし、これだけですべての東山道の本道構造が、明らかになったわけではありません。が、ほぼ同様の規格、構造をもって作る意図はあったと、判断できるように思われます。むしろ支線でこのぐらいの規模なら、本線はもっと大きな規模ではなかったか、少なくとも同等以上と、推察するほうが妥当と思われます。
木杭で土留め、側溝も完備
埼玉県東松山市の東に位置する、吉見町西吉見条里遺跡の調査結果によると道路方向は、北北東から南南西に、ほぼ一直線で、最大幅約12mと9m、長さ約70mにわたり発掘されました。9m幅で木杭を土留めに使用したものと思われる木杭列を有し、旧地表面の上に最大厚30cmもの砂礫層を敷き詰めてあったようです。
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図-2 東山道武蔵路(西吉見条里遺跡、埼玉県)想像断面路
さらに表層には、黒色土を薄く敷き、人の足や突棒などでつき固め、表面にはわだち跡と思われる道路に沿った細い筋状の跡も確認されているとのこと。地盤の弱いところには粗朶と呼ばれる葦や、樹皮などを敷いた上に砂礫を積んだり、廃材や河原石、砂礫を混ぜ込み土壌改良した上に、砂礫を積んだりした跡などが見られたとのことです。
道路両側には溝も備えた構造は、現代の道路構造に通ずるところもあり、1300年前の日本の幹線道路は、当時としては、かなり進んだ土木技術によって作られた高規格道路といえるもので、古人の土木技術の高さと、道路の規模の大きさに驚嘆させられた古道でありました。(図-2)
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今回は埼玉県立歴史資料館の貴重な資料、お話、ご協力の基に、
筆者の思いを込め原稿と致しました。
※資料
埼玉県立歴史資料館開催
比企歴史の丘教室 吉見町教育委員会 太田健一氏講演会より抜粋。